プロフェッショナリズムを追求する旅

戦略コンサルタントという理解し難い職を通じて感じるところ等々、徒然に書いて行きます

ブログを移管致します

ブログを移管します。

 

取り敢えず、下記のサイトでの試験運用を始めました。

http://koguretakashi.com

 

まだ、はてなブログの記事を全てエクスポート→新ブログでインポートしただけですが、今後、時間を見て整形作業をして行きます。(色々と面倒臭いのですが)

 

引き続き、宜しくお願い致します。

読書録「読んでない本について堂々と語る方法」

 題名に惹かれて買った本。

 

パッとタイトルを見た感じは、非常に安直なハウツー本のような印象も受けるが、実際には「読書とは」、もしくは「教養とは」ということを再定義しているもの。

読書は、実際にその本を読んでしまうと逆に本質を見失いかねない。

 

「本を読む」ということについて多くの人が、脅迫観念のようなものを持ってしまっているのかも知れない。しっかりと読み、理解し、自分自身の中で咀嚼する。それによって初めてその本について語ることが出来る、と。

しかし実際には、それが弊害になりかねない。

 

読書についての認識が改まり、「本」という存在への向き合い方を考え直すことが出来る一冊。

是非、お勧めしたい。

 

 

 

 

 

さて、未読スペースに積まれたこの本、そろそろ私も読むかな・・・。

取り敢えず、読んでないけど語ってみました。

 

※この記事の内容は、本の背表紙に書かれたコメントと、本屋でパラパラとめくって得た情報だけを基に書いたものです。ちゃんと読んだら改めて書きます。

戦略コンサルタントは「高さ」ではなく「深さ」で勝負する

戦略コンサルタントの提言内容について、その「答え」だけを見ると、至って平凡なものである場合が殆どではないかと考えている。

ごく稀に、非常に斬新な発想が生まれたりするが、多くの場合、どこかで見たことが有るような提言に終始すると思う。

 

この点は、顧客の期待値コントロールにおいても重要だと思っている。

提案の際に「誰も思い付かないようなアイディアを出して欲しい」という要望を受ける場合が有る。しかし、そのような場合には明確に「それは保証できない」と伝えている。

結果として新しい切り口が見付かったり、顧客が全く考えてもいなかったアイディアを示すことが出来たりする。

しかし、この場合にも多くは、単に「顧客が知らなかった」という情報の非対称性故に「新しい」と感じているものと思っている。

 

そもそも、戦略コンサルタントの勝負のポイントは、そのようなアイディアの新しさであったり、更には高度な専門的知識等ではないと考えている。

アウトプットの「高さ」という点では、決して高くない。

「高さ」で勝負するためには、特定領域に対する極めて高度な専門性を有していることが必要だと思う。少なくとも顧客側に備わっていないもの。

戦略コンサルタントにそのようなものは備わっていないと思う。

 

では、戦略コンサルタントは何で勝負するのか。

私は「深さ」だと捉えている。

 

ある事象を見た時に、顧客が認識する深さとは異なる次元で認識する。洞察をする。

それにより、複雑に絡み合った事象を解きほぐしたり、別個のものと認識している事象を一つのメカニズムとして捉えたり。

「掘り下げる」と呼ばれることだが、これにより、確かに表層的には同じ事象なのだが、全く異なる認識となる。

認識が変われば、発想も全く変わる。

これにより、顧客の頭が切り替わる。

 

結局、戦略コンサルタントが示す提言の中で「新しい」というのは、その発想自体が「新しい」のではなく、認識の仕方が「新しい」(今までよりも深い)ということ。

そのため、認識に対する発想自体はごく平凡と感じることも多いと思う。

 

なお、このような前提に立つと、戦略コンサルタントのプロジェクトを、提案時もしくはプロジェクト開始時の作業設計通りに進めることが必ずしも良いと言えないことも少なくないと考えている。

私は結構やるのだが、そもそもプロジェクトのテーマ自体を途中で全く異なるものに変える、ということも必要だと感じている。

 

掘ってみなければ何が出て来るのか分からないのが戦略コンサルタントの仕事。

そのため、企業経営に関わる基本的な知識は網羅的に習得していることが必要だし、それらを組み合わせ、範囲を限定せずに考えることが必要。

 

「高さ」が必要となれば、その時に専門家を呼べば良い。

その代わり、「深さ」についてはかなり徹底しなければならない。

 

そんな仕事だと感じる。

 

先輩から学んでいるうちは先輩を超えられない

社会人になって、もしくは新しい職に転じて間も無い時期には、1年程度しか離れていない先輩であっても凄く見えることが有る。まして10年先輩などを見ると、到底追い付けない人に見えるかも知れない。

最初のうちは、「それらの人から学ぶ」という姿勢で良いと思う。最初からいきなり独自のやり方を習得するということは不可能。

しかし、なるべく早い時期に「先輩から学ぶ」という姿勢から脱却する必要が有ると思う。

 

先輩に限らず「誰かから学ぶ」という姿勢であるうちには、教えを受ける人を超えることはできない。

あくまでもその人のクローンを目指すことになるが、実際に100%のクローンになることは不可能なので、スケールを落とした、もしくは要素が欠けたコピーが作られるに過ぎない。

 

守破離

 

私が意識していることだが、何かを学ぶ時には、まずは師を定めてその人の「型」を学ぶ。

ある程度の「型」が出来た段階で、他の流儀に手を出してみる。

その上で、他の人の「型」から離れ、自分なりのやり方を追求する。

 

コンサルタントという仕事は、かなり個性が反映されると考えている。

思考の癖や性格等、個々の特性次第で、同じことをやったとしても全く違う結果が生じる。そのため、どこかの段階で「自分のやり方」を見出さないといけないと感じている。

正確には、「自分のやり方」自体を常に変化させ続けることが必要なので、何か答えが有るようなニュアンスの「見出す」というよりも「探し続ける」という表現の方が良いかと思う。

 

コンサルで言えば、アナリストとして入社したらアソシエイトの中でシニア~マネジャーでジュニア位の人と、マネジャーでシニア~パートナーの人、それぞれで「こんな人になりたい」という人を定め、「どうすれば近付けるのか」を徹底的に考えると良いと思う。

しかし、アナリストも終盤に差し掛かり、アソシエイトへの昇進を明確に意識する頃には、一度その人のやり方から離れる必要が有ると思う。

 

この場合、「離れる」というよりも、「これは違う」というような部分を意識的に感じるようなことが必要になると思う。

取り敢えず最初のうちは盲目的に、「違う」と感じてもまずは真似る、言われた通りに動くことも必要。作業の本当の意味などは最初のうちは分からないことが多いので、その段階で自分の判断で取捨するのは危険。

しかし、2年もやれば明確に「これは違う」という部分が見えて来るはず。自我が芽生える。

 

ここが一つの成長の転換点となり、他の流儀を見た方が良い。

(なお、他の流儀を見ても同じ部分について「これは違う」と感じるのであれば、それは自分自身の考え方が間違っている可能性が高い)

 

幾人もの上位者を見ていると、仕事の進め方、考え方等に色々な違いが見えて来る。上位者になるほど差が大きいと思う。

コンサルファームについては、基本的にアソシエイトの途中までは道は一本だと考えている。この段階で個性による差は大きくは出ない。思考の癖などによる得意不得意、それに伴う多少のアプローチの違いは有れ、基本的に「正しい」というものは一つ。

しかし、マネジャーに差し掛かる頃になると、少し変化が生まれる。「やり方」に個性が反映されてくる。

そして、パートナーになると、かなり癖が強いと感じると思う。結局、個性に適したアプローチ方法を取らないと、結果を出せなくなる。

 

まずは、幾つものやり方を見て、どういった方向性が有るのかを理解する。その上で、自分なりの流儀を模索する。

真似ではなく、様々なもののミックス+自分独自の味付け。

 

 

このような意識を持たないと、結構早い段階で成長が止まると思う。

 

プロフェッショナルの仕事はアウトプットの絶対値で考えるべき

昨日Twitterで書いたことに絡んで。

 

まず、本来あるべき「ホワイトな環境」は、効率を上げることを通じて所要時間を減らすということのはず。今の「ホワイトな環境」は、効率は変わらないままで到達水準を下げることで所要時間を減らしていることが多いと思う。

 

 

「プロフェッショナルファーム」。

私は「事業会社」をその対義語として位置付けている。

「コンサルファームもコンサルという事業を行っており、『事業会社』のはず」というのは正しいのだが、一方で「プロフェッショナルファーム」と「事業会社」は根本の性質が異なると考えている。

 

その決定的なものが、アウトプットの測り方だと考えている。

「プロフェッショナルファーム」はアウトプットを絶対値で測る。一方で「事業会社」は効率の観点が重視される。

プロフェッショナルファームは、先に投下できるものが決まり、その中で最大限のアウトプットを示す。

事業会社は先に求められるアウトプットの水準が決まる。それをいかに少ない投下で実現するのかを追求する。

 

元々の「プロフェッショナル」は聖職者、医師、法律家という3者。

医師が典型だと思うが、クライアントはプロフェッショナルに対して、絶対値としてより高い効果を求める。

医療費という明確な負担がのしかかる現代においては、クライアント側が費用対効果を考える場合が有る。しかし、プロフェッショナル側の都合での効率で判断されると厄介。

実際に起こっていると聞くが、「この患者は効率が悪いので受け入れない」といったことが生じる。受け入れた患者について「この手術は効率悪いから止めておく」ということまで有るのかどうかは知らないが。

 

コンサルの場合も、コンサル側の都合での効率で判断すべきではないと考えている。

 

コンサルの仕事では、言うなれば「ゴールを自分で設定する」ことになる。

顧客の要求を満たすこと=ゴールと考えることもできるが、実際には「顧客の要求を満たす」は設定するゴールの最低水準に過ぎない。

ゴールの水準は高ければ高い方が良い。いかに期待を上回るのか。

 

この時、ゴールの設定に「効率」という考え方が介在すべきではない。

仮に「100%」というものが有るのであれば良いのだが、実際にコンサルの仕事で「100%」ということは皆無だと考えている。そうすると、如何に「100%」に近付けるのか。

 

また、作業選択の際には効率を意識することが必要なのだが、この際の「効率」の捉え方に勘違いが有るように思える。

 

顧客が求める最低水準が100、投下できる工数が100とした時。

 

本来、作業選択の際の「効率」は、限られた時間を作業Aと作業B、どちらに振り向けるべきか、という観点のもの。作業Aと作業B、どちらの方がよりゴール水準を高く持って行けるのか。それを考えるもので、これは絶対に必要。

その際、投下できる工数が先に立つ。同じ100の工数を要する作業AとBが有る。作業Aに投下すれば到達水準は110、作業Bであれば120。それならば作業Bを選ぶ、という考え方が必要。

 

しかしながら実際には、100の水準に達するために作業Aだと80の工数、作業Bであれば90の工数。ならばAを取る。

ここまでは良いが、まだ有る20の工数。ここでその20を要する作業Cを行うと10だけ到達水準を高めるられるが、それを投下するのか。

この際に、「もう100に達しているから不要」という判断をするケースが多くなっていると感じている。

 

 

これが問題だと感じるのは、まず、到達水準の設定が甘い、ということ。

確かに、設定した100という到達水準が「顧客にとってそれ以上の必要は無い」というものになっていれば良い。医師で考えれば、それで完治する、という水準。

しかし実際には、「顧客からクレームを受けない」という水準で留まっている場合が多いように感じている。医師で言えば、「取り敢えず最低限の処置はしました」というような感じ。

 

加えて、100の到達水準に対して80の工数で達し、それで完了と考える場合に、その80が100に伸びることが多い。本来は作業Aを80の時間で終えて20は余裕時間となるはずなのに、結局100ギリギリまでかかるということが起こり易いということ。

そして、いつの間にか作業Aは100の投下工数を要するという認識になる。そこで余裕を生もうと、到達水準を引き下げるということが生じているように見える。

 

もう少し言えば、時間的な余裕が有っても到達水準を引き上げることはしないのだが、時間的な余裕が無くなると到達水準は引き下がる傾向が強い。

100の工数に対して80で終えても到達水準は100のまま。

しかし、投下できる工数が70まで下がると、「投下できる工数が下がったのだから品質が下がるのは仕方が無い」と、到達水準を90まで下げる。

 

 

働き方改革」という風潮、制約の下、「限られた時間」自体が短くなるのは致し方ない部分も有ることは理解できる。

しかし、時間が限られるのだとすると、それを上回って効率を上げることが必要。幸い、10年前と比較してツールがかなり充実しているので、相当に効率を上げることができるはず。

 

「時代が変わった」という言葉も含めて、それを言い訳にしている場合が多いように感じる。「『働き方改革』が求められているのだから、アウトプットの品質が下がるのは致し方ない」、「時代は変わったのだから、そこまで求めるのは良くない」といったこと。

しかし、顧客側の要求水準は変化が無い。求められているのは「直面している課題を解決する」ということだけ。

 

 

 

プロフェッショナルである限り、「いかに高いアウトプットをするのか」ということを常に意識して取り組むことは、環境などと無関係に必要だと感じる。これは顧客に対しても当然だし、自分自身の成長に対しても同様。

 

そのように、自分を追い込む癖を付けること。

この癖を付けられるのか否か、付けるにしても如何に早く付けるのか。

 

この意識が決定的に欠けているように感じる最近。

自戒も込めて。

育成観点でのBDD案件へのアサインの意義

Twitterで触れた、BDD(Business Due Diligence)案件について。

 

BDDは好き嫌いがはっきり分かれるが、どちらかと言えば嫌う人の方が多いのではないかと思う。

確かに、短期集中勝負であり、それ以上に顧客がファンドという非常に能力水準が高い(かつ、コンサルを熟知している)存在であることで、肉体的にも精神的にもかなり厳しい状況に置かれることも多い。

 

一方で、私自身もかなりの数のBDDを経験したが、育成という観点で非常に得られることが多い案件だとも思う。

「楽しめ」と言ったところで難しい人も多いということは理解している。

しかし、「成長したい」と感じるのであれば、「楽しんで」とまでは行かなくても「前向きに」程度には取り組んで欲しいという思いが有る。

 

 

書いた通り、BDDはアナリスト教育にとって非常に有効だと思う。極論すれば、コンサルタントになって1年程度はBDDにだけ浸かっていても良いと感じる位に。

ハードスキルを身に付けるという観点で、非常にオーソドックスなスキルが求められることに加えて、要求スピード=プレッシャーも強くなるので、ストレッチがされる。

「作業」という観点で言えば、これだけの密度で、コンサルのアソシエイト/アナリストレベルで求められるスキルを網羅的に学べる場は他にないと思う。

スタッフでBDDにアサインされたら、「コンサルタント養成学校に入学した」といった気持ちで取り組むと良いと思う。

「BDDが好き」と言ってしまうと、ファームによっては延々とBDD・・・ということも生じかねないが、1案件だけであれば短期間で終わる。終わりが明確に見えるのもBDDの良い所だと思う。

 

一方で私が感じるのは、アナリスト以上にアソシエイト後半の「プロジェクトマネジャー入門者」にとってBDDが恰好の材料になるということ。

 

BDDの性質として

  • 基本的に「理」で押し通せる
  • 短期集中で様々な業界等を見ることが出来る
  • 放っておくと膨大な作業量に埋もれる

ということが挙げられると思う。

 

まず、顧客がファンドという、謂わば「プロ」が相手。

コンサルタントの仕事、特にプロマネという立場で難しいのは、「理」だけでは通じない時。「情」も含めて相手と組み合うことが必要なのだが、いきなりそこまで要求されても難しい。

成長のステップとしては、まずは「理」で攻めることが出来ること。それが出来た上で「情」の部分を磨くことが必要だと思う。しかし、BDD以外の案件だと「理」と「情」を切り離すことは難しい。

その点、BDDは明確に「理」。

顧客に受け入れてもらえるか否かは(実際には「情」も多少は絡むが、圧倒的に)「理」にかかっていると言える。

BDDをしっかりと着地させられるようになれば、プロジェクトマネジャーとしての態勢は整った、と言えると思う。

 

経験値を積むという点でも良い。

非常に短期間に、その業界について一気にまとめた知見を得られる。格好のケーススタディ課題のように感じる。

戦略眼に長けたパートナー等と組めば、「企業/戦略を見る目」がかなり養われると思う。

 

加えて、最も大きな点。

 

BDDが大変なのは「放っておくと作業量が膨大になる」ということが大きいのだが、実はこれはプロマネの裁き方(裁く能力)に依っている部分が大きいと思う。

基本的にBDDの場合、精査ポイントをある程度ファンド側から示されることが多いが、実際には本筋から言えば精査の重要性がそれほど高くない場合も多い。

ファンドからの要求をそのまま受け入れてしまっているうちは作業に追われて地獄を見るが、レベルが上がって来ると、ファンドの要求をコントロール(切り捨てること)ができるようになる。

プロジェクトの早い段階(理想的には提案段階)で、ファンド側担当者と精査ポイントを詰め、とにかく見るべきポイントを絞る。これがBDDを「楽に」回すための絶対条件。

 

これは、どのような案件にも言えることで、結局のところ、「主導権をどちらが取るか」と言うことだと思う。

プロジェクトマネジャーに求められているのは「主導権を取る」こと。

この訓練の場として、「理」で勝負できるBDDは非常に適していると感じている。

 

 

私は、BDDを数多く経験する中で、プロジェクトの進め方についてかなり学んだと感じている。

特に、主導権を取り、スコープを絞ることで作業量を削る、という点。

慣れて来ると、プロジェクト開始~最初の1週間程度でバサバサと作業を切ることができるようになった。

ファンドによっては「取り敢えず網羅的に見たい」というような意向も有るので、そのような場合には、注力ポイントとそれ以外を明確に切り分けるということ。優秀なスタッフと自分の時間を注力ポイントに絞り込み、能力の低いスタッフを「その他の部分を飾る」ために使う、というようなことを意識した。

 

とは言え、これでもBDDはハードになる。

注力ポイントを絞っても、他の顧客であればある程度「ザックリ」で行ける所が行けない。とにかく突き詰めることが必要。また、私の性格でもあるのだが、余裕が有るなら品質を更に高めたい、という気持ちが働く。

しかし、これはコンサルタントに本来求められている役割なので、避けて通れないことと感じている。(ビジネスとして考えるなら「割り切る」ことも必要とは認識しているが)

逆に言えば、他の顧客で、何となく小手先でごまかすような癖が付いてしまっている場合に、それを矯正するという点でも良い。初心に立ち返れる。

 

ちなみに、慣れて来るとBDDだけで数案件並行で回す、といったことが出来るようになる。しかも、結構余裕が有ったりする。

その頃にはBDD卒業でも良いかな、と思う。

 

しっかりとした上位者についてのBDD案件は、「学びの場」としての価値は非常に高いと思う。

アサインされたら、是非前向きに臨んで欲しいと思う。

求められている思考の細かさを理解する

先日書いた下記の記事について、コメント欄でご質問を頂いた内容に絡んで。

takashi-kogure.hatenablog.com

 

記事の中で、ボトムアップ型はマネジャーになる過程で思考の型をトップダウン型に切り替える必要が有るということを書いた。

これだけ見ると、トップダウン型は苦労無くマネジャーへの歩みを進められるように感じられるかも知れないが、実際には、コンサルタントになった当初(特にアナリスト時代)にトップダウン型の方が苦労する場合が多いように感じる。

 

記事内で書いた通り、私は「詰めが甘い」という指導を受け続けたのだが、特にアナリストとして求められているのは抽象的に物事を捉えるよりも、具体的に理解する・思考を詰めて行くこと。この点についてはボトムアップ型の方が適合し易い。

 

実際には、トップダウン型だから、ボトムアップ型だから、というものでは本来はない。これは訓練次第だと思う。

しかし、あくまでも傾向としてだが、トップダウン型の方が「飽きる」と言うか、「これ以上細かく考えることの必要性を感じない」と思ってしまうことが多い。

 

そして、これを解決するために、もう少し言えば「コンサルファームのアナリストとしてしっかりとしたスタートを切るために」は、求められている思考の細かさを理解することが必要と考えている。

 

書いたように、トップダウン型だから詰めが甘い、というわけではなく、ボトムアップ型の人でも入社時の詰めの甘さは大差無いと感じている。

全体的に、「ここまで調べる・理解する・思考する」というレベル感についての理解が足りない。粒度が甘い。

コンサルタントには「思考の深さ」が求められるが、アソシエイト位まではこの「深さ」は「理解の細かさ」に概ね比例すると考えている。

細かく理解すれば細かく思考することができ、それが思考の深さに繋がる。

 

「求められている思考の細かさ」

 

これは感覚的に身に付けるものだと思う。

マネジャーになると、相手の認識と実体との乖離を踏まえ、どこを細かく見るのか、といった、個々の対象に応じた思考の細かさの調整みたいなものが必要になる。

(参考:「『現実』と『認識』の乖離」

しかし、これを特にアナリスト段階で行うのは無理。

そのため、取り敢えず向き合う対象については、一定の細かさで調べる・理解する・思考するということが必要になる。

そのレベル感を掴むこと。

 

このためには、過去の成果物を漁ることが一番。

しかも、最終成果物だけでなく、検討過程の資料を見る方が良い場合が多い。最終成果物だと(しっかりとした上位者がまとめるものほど)細かな部分を割愛しがち。

調査時の収集情報の内容、収支予測のモデルの組み方・パラメータの置き方、社内の実態調査での記述レベル等々、ここまで見た上で、抽象的な認識に落とし込む必要が有るのか、という感覚を掴むと良い。

 

とは言え、結局、最後はプロジェクト内での指導に尽きると思う。

「考えが甘い」と一蹴される場合の大多数が、この「細かさ」の問題のはず。どれだけリアルに物事を捉えるのか、様々な例外事象まで考慮に含めるのか。

放っておくと細かくなり過ぎる。そのため、指導を受けながら感覚を掴むことが必要。

 

しかし、最後まで「細かさ」が見えるのも良くない。

最後に思考を逆転させ、抽象的認識→具体的理解からもう一度、抽象的認識に戻す。 

細かく考えた上での抽象的な提言には自ずと「重み」が生まれるが、ザックリと考えただけでの抽象的な提言は「軽い」ものに留まる。

 

まずは細かく考えることを身に付ける。

そして、どこかのタイミングで抽象的認識を先行させる。

これが必要。