プロフェッショナリズムを追求する旅

戦略コンサルタントという理解し難い職を通じて感じるところ等々、徒然に書いて行きます

「仕事」と「労働」

今日、顧客社内で幾人かの中堅社員の方に色々とお話を伺う機会が有り、その中で「仕事のやりがい」という話題が出た。

 

この顧客は非常に安定している(客観的に見て将来性について懐疑的な部分は有るが、少なくとも社員の方々は安定していると認識している)企業なのだが、幾人かに伺って皆さんが「この会社での仕事のやりがいなんて感じたこと無いですね」と話していた。

 

仕事をする大きな目的として生活の糧を得るというものが有るので、このような感覚で日々を過ごす人が居るのは当然だし、皆がやりがいを持って働いている場というのは理想では有るけれど、現実的に実現することは難しいと思っている。

 

生活の糧を得るために時間を切り売りするのが「労働」。時間と金銭の取引。

「仕事」は自分が社会なりに対して何らかの貢献をするといった+αの意味が有るものと捉えている。

芸術作品や職人芸を評する時に「良い仕事をしてますね」と言うけれど、「良い労働をしてますね」という表現は聞いたことが無い。

やりがいを感じないということは、+αの意味を見出せていないのだと思う。

 

私の親は両方共高卒で典型的な「労働」(それぞれ工場のライン作業員と役所的なところでの事務作業)を定年まで勤めあげ、私を大学まで(しかも高校から私立で)通わせてくれた。母親などは酒も飲まなければ趣味と言えるものも無いので、多分、子供の成長(今は孫の成長)だけを楽しみに生きて来たんだと思う。

それも現実としての人生だし、多分、それ以外の選択肢が無かったのだと思う。

 

「何のために生きるのか」などと考えられるのはかなり恵まれていて、人類以外の生物は基本全て、人類もつい最近までは(場所や状況によっては今でも)「生きることが唯一の目的」。

生きるために、ましてや子供に良い教育を与えるために必死で働く、というのは崇高なことだし、私も両親には非常に感謝している。

 

 

そんなことは十分に分かっているんだけれども、やはり、何だかモヤモヤするのが本音。

この顧客企業の場合、それなりに名前が知られているような大学を出ている方が多いことも、話を聞いていてそのような心境になる理由かも知れない。

また、社会性の有る企業で、古参社員のお話を伺うとその面でのやりがいについて話す人も多い。自分の仕事が形として目に見えるのも、このような仕事をやっている立場からすると羨ましい。

会社や先輩が伝え切れていないということも有るだろうし、当人も見付けようとしていないのかも知れない。

 

何だか勿体無い。

 

せっかく、これだけ豊かになった世の中で、しっかりとした教育を受ける機会に恵まれた人が、自分の時間を切り売りして生きるのってどうなんだろう。

20代から50代という人生の一番充実した時期の、通勤などを含めれば使える時間の半分以上を費やしてしまうような対象。

「仕事」と「労働」の差は気持ちの持ちようの部分もあるので、せっかくだから何かその中で価値を見出せるような意識を持ってみると良いのに・・・。

 

自分が何を大切にするのか、やりたいことと巡り合えるか、といったことも影響して来るので、他人がどうこう言えるものではないのだが。

 

分かってはいるけど、モヤモヤ感が強く残った一日。